高橋家所蔵 解體新書
『
「苟くも医術を持って主君に仕える身でありながら、人体の構造も知らずにいたことは面目もなき次第なり。」「いかにしても、通詞〔翻訳家〕らの手を借らず読みわけたきものなり。」と語り合い、自分たちの力だけで正確な解剖書を世に出そうと前野良沢や中川淳庵らと誓い合った。玄白39才、良沢47歳の時であった。玄白、良沢、淳庵、桂川甫周や石川玄常らが翻訳し、1774年〔安永3年〕苦心の末『解體新書』を出版した。「神経」、「軟骨」、「頭蓋骨」、「十二指腸」、「門脈」などの新しい医学用語が生まれた。付図は平賀源内の弟子で、秋田蘭画で有名な小田野直武が描いた。
『解體新書』が、翻訳臭味を脱した立派な漢文で書かれていることは、玄白の漢学・漢文の素養に優れていたことを、如実に示している。特筆すべきは、責任者4人の上部に『日本』と記している。玄白はこの2字に大きな意味を持たせていた。『和蘭医事問答』に「解体新書も色々工夫仕候得供、多く漢人未設者御座候故、〔中略〕及ばずながら運に叶い、唐までも渡候者・・」「唐人までも、日本流外科為致可申と著述を相企て、草稿七八巻も出来仕候」とあり、広く中国人および漢文を解する国々の人にも読ませようとした。
翻訳は主に蘭語を得意とした前野良沢らがあたったが、良沢の名前はこの書の「序」以外には出てこない。訳述の正確を期する完全主義者の良沢と拙速であっても一日でも早く優れた西洋医学を世に紹介したいという玄白との意見の相違があり、自分から名前を載せることを辞退したと言われている。
しかし、一方では、久遠山榮閑院から発行されている『先覚者杉田玄白先生 その生涯と功績』では、玄白還暦〔60歳〕、良沢古稀〔70歳〕のお祝いを共にするほど、玄白と良沢は晩年に至るまで仲が良かった事実に触れ、西洋医学ましてや解剖学について偏見が強かった時代に、玄白が良沢を迫害から守るためにあえて名を隠させたのではないかと推測している。
玄白が良沢を尊敬していたことは、和蘭語通詞吉雄永章〔吉雄幸左衛門〕の『解體新書』序文に以下のような玄白の言葉がある。「翼〔玄白〕は良沢に学び、おそれながらも遠くにおられる先生の教えの一端を受け、そこでやっと蘭書のうち解剖書を選び、これを読み、良沢に従って解釈し、従って訳し、ついにこのようなものを作り上げるまでになりました。これは実にうれしいことでございます。そこで先生に一度お目通しいただいて、疑問の箇所を質すことをお願いできますならば、われわれが死んでもこの本は朽ちることが無いでしょう。」
また、『蘭学事始』に「世に良沢といふ人なくば、この道開くべからず。」とその功績を認め、さらに「この学開くべき天助の一つには、良沢といふ人」のあったことを感謝している。
玄白は大行は細瑾を顧みない主義で、この翻訳事業を自分の責任で進めていった。訳にかなり間違いがあることを、彼自身よく知っていた。それでも『解體新書』を出版することによって、日本の医学を革新して、正しい軌道に乗せることができると信じた。しかし、『解體新書』をいきなり出版すれば、世の中の衝撃があまりにも大きすぎて、幕府に出版を差し止められることを恐れ、予告編として『解體約図』を出版し反応を見た。翻訳された当時の情勢からすれば、蘭書の出版自体が咎めを受ける可能性が高かった。そして、出来上がった『解體新書』を先ず将軍に献上し、幕府の重臣や京都の公家方にも献上した。その結果、『解體新書』の出版はなんの騒ぎも起こさないばかりか、予告編も手伝って大評判になり玄白の苦労は見事に実を結んだ。
『解體新書』の出版は功名心でなされたと考えるよりは、『解體新書』凡例に玄白自身が書いた言葉「汚習、耳目を惑わして、未だ雲霧を被きて晴天を見る能わざるなり〜古くからの観念に目・耳を汚され惑わされていたため、その迷蒙を迷い抜け出て真実の青空を見ることができなかった〔つまり、考え方を一新しなければその真理の中に入ることができない〕」にあるように、その迷蒙を開こうという意思でなされたのだと考えるのが正しい。
また、『蘭学事始』に「一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散って満治に及ぶとや。さあるが如く、その初め、前野良沢、中川淳庵、翁と三人申し合はせ、かりそめに、思ひつきしこと、五十年に近き年月を経て、この学海内に及び、そこかしこと四方に流布し、年毎に訳説の書も出づるやうに聞けり。」とあり、蘭学の発達によって日本の医学が正しい道を歩むようになったのみでなく、鎖国の日本が蘭学ついで起こった洋学のおかげで、世界の情勢をある程度は知り得たことが、開国さらに明治維新への準備としてはなはだ重大事であった。
1765年〔明和2年〕に後藤梨春が『紅毛談』〔オランダの地理、風俗、器などの説話体の雑録〕を出版したが、オランダ文字を用いているという理由で絶版を命じられ、著者は流罪になった直後だけに、『解體新書』の出版の勇気には敬意を禁じえない。
『解體新書』がはなはだ不備であることを玄白自身がよく知っていたので、玄白はその改訳を高弟の大槻玄沢に命じ、1826年〔文政9年〕『重訂解體新書』を出版させた。