鷧齋(いさい)日録(にちろく)

玄白は実にまめに日記を付け、『鷧齋日録』として残しています。

『鷧齋日録』は1788~1806年〔天明8~文化3年〕、玄白56歳から74歳まで約19年間の日々の貴重な記録。玄白の玄孫六郎氏に伝わり、1936年〔昭和11年〕原田謙太郎氏により披露された。杉田家に伝わること120年余、蟲蝕だしくまた不明の箇所多く、判読が困難であった。内容は天候、体調、日々の身辺の出来事を主としているが、その時々の見聞録随想和歌狂歌俳句、漢詩、本人の年収などが多彩に織り込まれている。毎日のように往診に出かけていることにも頭が下がる。事件・火事・地震の記事も多く、「平犯科帳」で有名な火付盗賊改「鬼の平蔵」こと長谷川平蔵宣似(のぶため)も登場し、興味深い。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、火事と喧嘩が頻繁に起こっていた様子が伺われる。雲仙普の噴火の模様も詳細に書かれている。

杉田玄白の家系に関しては、原田謙太郎氏、石原明氏、片桐一男氏、緒方富雄氏等著名な方々が研究されておられます。

緒方富雄氏が昭和43年『日本医史学雑誌』に発表した「杉田玄白の女八百」のなかに掲載された家系図が定着しています。

江戸時代の家系譜上、女子の存在が残ること自体が少なく、たとえ存在が解かっても、ただ「女」と記載されるのみで、名前が残ることは更に少ない。杉田家は女子の名前が系譜上残っており、また「過去帳」、「筋書上」、「由緒書」なども代々伝えられ、名門の家系のであります。

『鷧齋日録』には、家族のことがよく記録されています。特に、出産や死亡、藩邸に出向や帰宅、子供を連れて芝居見物に行ったことや墓参などを書き留めています。また、孫の名前をつけ、名づけ親になっていることも見受けられます。よく子供や孫をかわいがっていたことが伺われます。

今回、『鷧齋日録』の内容から家族構成、特に玄白の子供のことを考えてみます。

この家系図を作るきっかけは、杉田玄白との漢方医師田中家のつながりを紐解くため、鷧齋日録』を何度も読み返し、新たな発見があったことです。そして、諸先生方の玄白の家系の中に本家系図も加えていただきたく存じます。