大正五年、森鴎外の『伊沢蘭軒』第二百十二章に「天保五年は蘭軒没後第五年である。他年榛軒の嗣となるべき棠軒淳良が四月十四日因幡鳥取城主松平因幡守斉訓の医官田中淳昌の子として生まれた。通称は鐐造である。母の名は八百、杉田玄白の女〔娘〕だと暦世略伝に言ってある。玄白とは初代玄白翼であらうか。」とある。

緒方富雄氏は鳥取市の田中家の過去帳を調べ、「杉田玄白の女八百」の論文を昭和四十三年、『日本医史学雑誌』第十三巻四号に発表した。

今回、杉田玄白の末娘八百と田中淳昌の結びつきを考察した。

① 参勤交代制度がもたらした江戸定詰医

参勤交代制度に伴い、医師も国許の城詰医と江戸定詰医が必要であり、江戸定詰医同士の付き合いも当然あったと思われる。

田中家は代々因州鳥取藩江戸定詰の本道医家で、四代田中淳昌〔順昌〕の時に六代藩主治道の江戸定詰侍医となり、二百石を受けた。また、玄白も若狭小浜藩江戸定詰医で、禄高二百三十石を受け、医師としての身分は田中家と同等であった。

したがって、鳥取藩江戸定詰医の四代田中淳昌〔順昌〕と小浜藩江戸定詰医の杉田玄白とは旧知の間柄であったと思われ、五代淳昌〔祐碩〕と玄白の娘八百の婚姻に結び付いたと想像される。

②杉田家と田中家はもともと親戚関係

津山洋学資料館刊行の『増補宇多川家勤書・附補充諸記録』に、宇田川玄眞は鳥取藩医・田中順昌の従弟との記載がある。

宇田川玄眞は宇田川家の養子となる前、安岡玄眞と称していた。寛政二年~寛政五年、玄眞が次女八曾の婿にと嘱目され玄白の養子となっていた。
田中順昌と宇田川玄眞が従兄弟であれば、玄白と順昌は一時期かなり近い親戚関係にあり、知己の間柄のはずである。

③蘭方医学の師と弟子

因幡国の医師稲村三伯〔後の海上随鷗〕が寛政四年江戸に出て、大槻玄沢の蘭学塾芝蘭堂に入門するが、そのきっかけになった『蘭学階梯』〔大槻玄沢著〕を送ったのは四代淳昌〔順昌〕であり、順昌は三伯の上京後の身元引受人にもなっている。また、文化三年に三伯が京都で蘭学塾を開塾した時、祐碩は入門している。
玄沢は玄白の弟子であり、玄白・玄沢・三伯・祐碩はそれぞれが師と弟子の関係にある。
このように三伯は田中家と深い関係にあり、八百と祐碩を結び付けたと思われる。

④田中祐碩の蘭学者としての実力

  江戸の噂話を収録した『免帽降乗録』の中に、「江戸蘭学徒」として「紅毛学第一;津山 宇田川玄眞、紅毛読書達人公義御抱;馬場佐十郎、仙台;大槻玄沢、因幡;田中祐碩、阿波;冨永晋二、加賀;吉田長淑・同;藤井芳亭・同;大高玄哲」の名と別に杉田玄白門人;江間〔江馬〕春齢の名を挙げている。

この事は文化十三年頃の江戸蘭学者の様子が伺われ、田中祐碩の蘭学者としての実力を示している。従って、玄白が祐碩の蘭学者としての実力を認め、娘八百を嫁がせたことが考えられる。

祐碩は漢方医の名門田中家に生まれ、漢方医学と蘭方医学を学び、蘭学者としてもその名を馳せたにもかかわらず、蘭方医学の先駆者玄白の娘八百との結婚後は蘭方医としての名前は出てこない。 

⑤杉田家と田中家は共に潜れ切支丹

もと若狭小浜藩主京極侯は切支丹大名であり、杉田家もまた切支丹であったと思われる。玄白の娘八百はジャボンナの霊名があり、切支丹であったことは疑いようがない。

また、因州鳥取藩主池田侯も潜れ切支丹大名であった。田中家も代々切支丹を信仰し、祐碩と八百が結婚したことは自然な成り行きである。

江戸幕府による切支丹に対する弾圧は非常に厳しく、祐碩と八百は江戸で密かに切支丹を信仰し、潜れ切支丹大名池田侯の庇護の下に、漢方医の子孫を残した。   

祐碩は、当時江戸で蘭方医としての地位を確立し、また蘭方医学の先駆者杉田玄白の娘八百と結婚したにもかかわらず、切支丹を信仰するために蘭方医を捨て、漢方医として生き抜いた。