杉田玄白1733-1817年、享保18-文化14年〕

 名は(たすく)、通称は玄白、字は子鳳(しほう)、号は鷧斎(いさい).若狭国〔福井県〕小浜藩江戸定詰医、85歳で死去。旺盛な好奇心、堅実な実証精神を持つ。息子の、孫の、養子の伯元玄端など杉田家は幕末時まで江戸で蘭学の中心をなした。

 あだ名は“草葉の”:玄白は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳が遅々として進まないので、「自分は身体が弱く、年老いているから『解體新書』の出版は“草葉の蔭”から見るであろう。」とよく言っていた〔蘭学事始〕。そこで、桂川らは玄白のことを“草葉の蔭”とあだ名で呼んでいた。しかし、玄白は長寿で“草葉の蔭”と呼んでいた甫周たちよりも長生きした。