物語の始まりは『蘭学階梯』

 若狭小浜藩江戸定詰医杉田玄白の娘(八百)と因幡鳥取藩医田中祐碩の婚姻の仲立ちをしたのは、稲村三伯(後の海上隋鴎)である。

 稲村三伯が1792年(寛政4年)、江戸に出て、大槻玄沢の蘭学塾芝蘭堂に入塾する。その前年に、蘭学修行のため江戸に出たい旨を藩に願い出ている。

 1791年(寛政3年)12月7日、御用部屋日記に「稲村三伯儀家業修行のため江戸表に罷越し、田中順昌手前は逗留致し、当年より来る寅年(寛政6年)迄全3年の御暇願い奉る趣き、御耳に達し候ところ願いの通り仰せ付けられる旨仰せ出され、その段御用人を以って申し渡す。」とあり、実際には病気のため、出立を延期して、1792年(寛政4年)に江戸に向かった。

 その入門のきっかけになった『蘭学階梯』を三伯に送ったのは、田中家四代淳昌(順昌)である。また、順昌は上京後の三伯の身元引受人になっている。当時、鳥取藩の江戸定詰医は、信夫元貞・三原祐川・桜井番龍・田中玄昌・田中順昌であった。

 そして、稲村三伯は1796年(寛政8年)、日本最初の和蘭辞典『波留麻和解』(江戸ハルマ)を出版した。『解体新書』出版後、実に22年目である。

 1806年(文化3年)、三伯が京都で蘭学塾を開塾したとき、5代田中淳昌(祐碩)は入塾している。

大槻玄沢は杉田玄白の弟子であり、玄白・玄沢・三伯・祐碩は、それぞれが師弟の関係にある。玄白の娘(八百)と田中祐碩の間を取り持ったのが三伯で、媒酌を玄沢がしたものと思われる。

田中順昌が稲村三伯に『蘭学階梯』を送らなかったら、八百と祐碩の結婚は無かったかも知れない。