杉田玄白は切支丹だった !?

杉田玄白は以前から天主教信者であったと言う説がある〔滝浦文弥、伊譚9号、昭和16年〕。玄白は若狭小浜藩医杉田甫仙の子で1733年〔享保18年〕小浜藩の江戸藩邸で生まれた。

もと小浜城主京極高次1563~1609年〕は弟の宮津藩主京極高知とともに切支丹大名であった。高次、高知の母はマリアと称し、1581年〔天正9年〕に洗礼を受けた信者で、その家庭は1つの修道院のようであったという。

また高次の妻の常高院〔幼名お初〕はの妹であるが、これも熱烈な天主教信者であった。そのため小浜地方はキリスト教信者が多く、今も常高院の墓石をはじめ切支丹など潜れ切支丹の遺物が多く残されている。

大陸と日本を結ぶ海の交通路として、若狭小浜はれも無く重要な地域に位置づけられていた。当時の若狭小浜は、海路は大陸に通じ、陸路は都〔京都〕を結ぶ重要基点であり、15世紀から交易が行き来する活気ある港であり、異国の文化・宗教が伝播した。

このような素地のある小浜の地に生をけた玄白の家庭もその影響が全くなかったとは言い切れない。1つの証拠とされるのに宇田川玄眞〔当時安岡姓〕と結婚した玄白の娘八曽〔1860年、万延元年没〕の名である。八曽は「やそ」、「邪蘇」、「イエス」にあやかった命名ではないかという説である。

因幡国江戸定詰医田中祐碩と結婚した末娘八百には霊名ジャボンナの名があることが、田中家の仏壇の過去帳から松田氏によって発見されている。

玄白の別号鷧斎〔いさい〕は、イエス・キリストの祖父の父に当たるという「エッサイ」の名からとったとされ、また晩年の号九幸も新約聖書の山上の垂訓に、9つの幸福を説いている。九幸はこの教えからとったという説もある〔滝浦文弥〕。

ワルエルダ解剖書      ターヘルアナトミア         解体新書  

更に『解體新書』の扉絵は秋田藩小田野直武が他の解剖図とともに描いたものであるが、『解體新書』が『ターヘル・アナトミア』と通称していたクルムス原著の解剖書を訳したものであるのに、そのはクルムスのものではなく、『ワルエルダ解剖書』に酷似している。

玄白が何故クルムスの扉絵をとらず、ワルエルダの扉絵を選んだのかは明らかでない。図を描いた小田野直武の一存でないことは明らかで、図の中央に「解體圖」とあり、下に横書きで「眞楼」と書かれている。この「天眞楼」は玄白の書斎名および私塾名である。玄白がキリスト教信者であるという論者によれば、天は神を意味し眞はキリストを仮托したものという。

『解體新書』の凡例に「私がこの仕事をこれまでにやり遂げることができたのは、じつに天(創造主)の恵み深いお心によるものである。それがなくしてどうして人力のみでこれを成し遂げることができたであろうか。とあり、神の存在を示唆している。

『解體新書』の扉絵はギリシャ的円柱・基礎をもとにエケレジャ〔教会〕を背景として、中央上部に王冠〔神・生命〕を描き、その下にハート〔心、心臓、生命〕をかたどり、その中に2匹の魚〔神の子イエス・キリスト〕が宝剣〔正義〕を口にしている。中央両側に右に男〔アダム〕と左に女〔イブ〕が裸体で立ち、男は禁断の果実を手にしている。下段には南蛮の男の顔〔キリスト〕を描き、その下に天眞楼と書いている。その下にドクロ〔死〕と一匹の蛇〔智慧〕を写し出している。これらの象徴は医学的関連よりも聖書をもとにした礼拝的意味があまりにも大きい。

当時、正面きって礼拝することができず、何とか礼拝物をと玄白の一念は、ついにそれをなし得た。

ローマ時代のキリスト教迫害史の中に、デメトリオ殉教者石棺には、ハートと十字架が模様の如く陽刻され、潜伏信徒の礼拝物となっていた。魚はギリシャ語でイエス・キリストを象徴した。この他潜伏信徒たちは,人物・王冠・剣・果実・鳩・ぶどう酒・蛇・天使・隠し文字によって、キリスト・聖霊を象徴し、栄光と希望を祈り、神を賛美し続け、勝利の確実性への確信を胸の奥に秘めて祈り続けた。これら迫害時代の教訓を密かに学び取ったものか、玄白の『解體新書』の扉絵は、まさに聖書の教えをみに模造されている〔神原和蔵、小川鼎三〕。

これらの迫害時代の教訓を密かに学び取ったものであろうか、玄白の『解體新書』の扉絵は、まさに聖書の教えが巧みに表現されているかに見える。

 いずれにしても、『解體新書』の扉絵は聖書とだしく関係のある図柄であることは間違いなく、当時の日本では非常に危険な図柄である。切支丹の疑いをかけられてもおかしくないこの扉絵をあえて採択した理由はなにか。玄白の死をも覚悟した大胆不敵な行動である。